アゼルバイジャンで犯罪歴が残った話 (3)

 旧ソビエト連邦のアゼルバイジャンという国で逮捕及び拘束され、犯罪歴が残った話の最終話です。第1話、第2話は下記リンクより進んでください。
アゼルバイジャンで犯罪歴が残った話 (1)
アゼルバイジャンで犯罪歴が残った話 (2)

夜のアゼルバイジャン

 部屋に入ってきた男は一直線に僕の前へ歩を進めると、安らぎすら与える程に穏やかな笑顔で僕に握手を求め、自らをジャビットだと名乗った。僕も笑顔で挨拶をする。30代後半だろうか、整えられた髪の毛に鼻立ちのしっかりした顔、ガッチリとした肉体を半袖のYシャツとスラックスが包む。綺麗に磨かれた黒の革靴、黒いビジネスバッグは、絵に描いた様な「デキル男」そのものである。ジャビットはこの警察署の誰とも違うオーラを惜しみなく醸し出していた。ジャビットと警察官に連れられて部屋を出ると、先ほど歩いた廊下を更に奥へと進んだ。繊細な彫刻が施された扉の前でジャビットが立ち止まると警察官がドアを開けた。ジャビットの肩越しに僕の目に飛び込んできた光景は、先ほどまで監禁されていた部屋とは全く異なっていた。警察署長室だろうか。まず明るさが全く違う。裸電球ひとつであった僕が監禁されていた部屋に対して、ここはいくつものライトが輝き、部屋全体を淡いオレンジの光が包んでいる。それを金の置物や装飾品が跳ね返し部屋全体が輝いているようである。床には絨毯、壁にはアゼルバイジャンの国旗や多数の肖像画。1番奥に立派な事務机と椅子。その事務机の奥から立ち上がった男がこちらに歩いてきた。差し詰め警察署長と言ったところか。年齢は60を超えたくらいであろうか、立派な口髭を携えた、恰幅のよい男だ。彼と握手をするジャビット。

 ジャビットは事務机の前にある2人掛けのテーブルの椅子を引いて僕に座る様に促すと、自分はその向かいに座った。秘書らしき女性が僕の書類とパスポートを持って現れ、それをジャビットに渡した。それを受け取ったジャビットは僕のパスポートと書類に目を通して、独り言を呟きつつ笑った。
「カンボジア、エチオピア、スーダン、ジンバブエ。」
 和やかなムードかと思った瞬間に空気が変わる。ジャビットがの顔つきが変わり、僕に淡々と個人情報の質問を始めた。

ジャビット「君の名前は?」
ジャビット「君の国籍は?」
ジャビット「君が住んでいる国は?」 ジャビット「日本のどこの町?」
ジャビット「このパスポートを取得した場所は?」
ジャビット「君が日本を出たのはいつ?」

 それが一通り終わると、一息ついて書類を持ってきた女性を僕に紹介した。

ジャビット「私は上手く英語が扱えない。彼女に通訳をしてもらう。」

 僕は彼女に挨拶をし、英語が得意ではないのでゆっくり喋って欲しいと伝えた。今までの質問がアイス・ブレイクであるとすれば、ここからは核心の質問である。(*今後の会話は基本的に通訳の言葉=ジャビットの言葉とします。)

ジャビット「なぜ軍の施設に入って写真を撮った?」

僕「軍の施設だとは知りませんでした。」

ジャビット「では、なぜあの場所にいた?」

僕「この地図を見て下さい。僕が立ち入った施設はこの公園の最上部に位置しています。」

 そう言って観光案内所で手に入れた地図を取り出して説明する。更に、カメラに撮った写真を見せながら、

僕「公園はこの広場から上へ上へと続いています。そして、最後にある約2mの壁の向こうが軍事施設の敷地です。僕はその壁を登ることによっていい写真が撮れるのではないかと思い、その壁を登りました。」

ジャビット「わかった。確かに、君のカメラに入っていた写真は軍の施設とは反対方向を向いて撮られたものだったと警察官から聞いている。私も確認していいか?」

 それから数分間ジャビットは僕がアゼルバイジャンで撮影した全ての写真を確認した。そして、唐突に質問した。

ジャビット「君は今、日本を出てどのくらい?」

僕「約1年半です。」

ジャビット「その間に何ヶ国行った?」

僕「約70ヶ国です。」

ジャビット「70ヶ国か。」

 少し表情を曇らせるジャビット。

ジャビット「アルメニアには行ったことがある?」

僕「ありません。」

ジャビット「行く予定はあるか?」

僕「ありません。」

ジャビット「アゼルバイジャンの後はどこへ行くのか。」

僕「イランへ行きます。」

 そう言いながら既に取得済みのイラン・ビザをジャビットに確認する様に促した。それを確認して何度か頷くジャビット。現在アゼルバイジャンとアルメニアはナゴルノ・カラバフという自治州を巡る戦争が泥沼化した状態であり、両国首脳により平和協定の締結を目指した協議が行われたものの、実質的な関係は良好とは言い難い。もし僕がアルメニアのスパイであるならばここから出すわけにはいかないという意図が見て取れる。ちなみに僕の今後のルートはアゼルバイジャンからイランへ行くわけではなく、アゼルバイジャンからジョージアへ戻る。そして、ジョージアからアルメニアに入ってナゴルノ・カラバフに立ち寄り、アルメニアからイランに入る予定である。この状況でこれを正直に話すわけにはいかない。

ジャビット「では、なぜ70ヶ国以上も行っているのにアルメニアには行かないのか?」

 この質問は想定していなかったら焦ったかもしれない。しかし、僕には3時間の考える余裕があった。そして幸運なことに海岸公園で話したアゼルバイジャン人が言っていた「アゼルバイジャンに来たらアルメニアには行けないでしょ?」という話を元に、不自然ではない言い訳を考えていた。

僕「可能ならアルメニアにも行きたかった。しかし、アゼルバイジャンとアルメニアの関係は良好ではなく、どちらか一方のビザしか取得することができない。僕は両国を比較してアゼルバイジャンに行きたいと思い、アゼルバイジャンのビザを取得することを選んだ。つまり、僕はアルメニアのビザを取得することができず、アルメニアへは行くことができない。」

 確かにアルメニアの渡航履歴があるとアゼルバイジャンのビザを取得することは不可能だという話を聞いたことがある。しかし、アゼルバイジャンを訪れた後アルメニアを訪れることは、2014年7月現在可能である。それがどの国籍でも一般的にそうであるのか、日本国籍だからこそ可能なのかはわからない。

 しかし、実際のところ僕の発言は穴だらけだ。厳重な身体検査を行えば、まず本日22:00バクー発ティビリシ(ジョージアの首都)行きのバスチケットが発見されたであろう。そして、僕が泊まっていたホステルに連絡され、僕の荷物が小さなバッグ1つであることがわかれば1年半の旅行で荷物がこれだけかと不審がられ、最終的にジョージアのホステルに大きなバックパックを置いてきた事実を話さなければならなくなるかもしれない。それの何が問題かと言えば、僕が次に訪れる予定だと言ったイランに入るためには、アゼルバイジャンから行くことはできるが、ジョージアからはアルメニアを通ることになる。もちろん、そこまでバレてもジョージアから飛行機を使うと言い張るが不自然であることに変わりはない。
また、イランに行く予定だと言うことでこの場を切り抜けたとしても、次は別のリスクが僕を待ち受けることになる。僕はきっと犯罪者として記録が残るであろう。そして犯罪者となれば出入国審査では当然の様に厳しく管理されることが予測される。もし僕の受け答えまでもが詳細に記録及び管理されたとなれば、イランへ行く予定だと言った僕はアゼルバイジャンからジョージアへの出国審査で確実に別室送りになり拘束されるであろう。「イランへ行く」と言ったことが嘘だとなれば、再度拘束され問答無用で監獄行きという最悪の事態すら想定される。

 穏やかでない僕の心中とは裏腹に、ジャビット表情が少し安心した様に見えた。それを見て僕に心境の変化が訪れる。ジャビットを勝手に「こいつがラスボスだ」と決めつけていたが、実際は味方なのかもしれないと考え始めた。つまり彼は僕の身の潔白を証明する弁護士の立場にある様な人ではないかと。

ジャビット「質問を変えよう。君の仕事は?」

僕「会社員でした。もう辞めましたが。」

ジャビット「それは国か、軍に関わる仕事か?」

僕「いいえ。普通の民間企業です。」

ジャビット「君の両親や家族の中に国か、軍に関わる仕事をしている人はいるか?」

僕「いません。あと、そもそも日本に軍隊はありませんよ。」

ジャビット「日本に軍隊がない?では、戦争が勃発したらどうするのか?」

 通訳と少し話をして怪訝そうな顔で僕の目を見つめるジャビット。これは面倒なところに突っ込まれた。拙い英語で現在日本が軍を必要とする程に差し迫った状況にないことや、日本の自衛隊が日本では「軍隊」という文言の意味とは多少異なると認識されていること、攻められた場合の防衛は可能なことなどを、日米安全保障条約の内容にも多少触れつつ必死に説明する。英語の語彙力が足りず、時々言葉に詰まるが通訳の女性がうまく要旨を汲み取ってくれ、なんとか納得してもらうことに成功する。

ジャビット「旅の資金はどうしている?」

僕「日本で死ぬ程働いて稼いでから出てきました。」

 その後の話題はパスポートのスタンプに移った。

ジャビット「このビザはどこの国?」
ジャビット「その国に何日くらいいたの?」
ジャビット「その国はどうだった?いい国だった?」

 ここでは終始和やかムード。そして、急に本題を混ぜてくるジャビット。

ジャビット「アゼルバイジャンに入ったのはいつ?」

僕「2日前です。」

ジャビット「アゼルバイジャンに何をしにきたの?」

僕「観光です。」

ジャビット「観光だけ?働く予定は?」

僕「ありません。」

ジャビット「アゼルバイジャンに知り合いはいる?」

僕「いません。」

ジャビット「日本大使館にも知り合いはいない?」

僕「いません。アゼルバイジャンに日本大使館があるのかすら知りません。」

 少しの間が空いて、ジャビットがゆっくりこう言った。

ジャビット「OK、以上で私からの質問は終わりだ。」

 心の中で大きくため息をつく。ジャビットは携帯を取り出すとどこかに電話を掛け始めたが、10秒足らずで話を終えて携帯をポケットに戻した。

ジャビット「トルコやジョージアの写真を見せてくれるかい?」

僕「もちろん!」

 ここからは本当にただの雑談であった。トルコのカッパドキアの写真が素晴らしいとか、トゥズ湖なんて場所があるのかとか、ジョージアのこの場所へは行ったことがあるとか。僕がロシアに行きたいと言ったら、ジャビットが「正気か?俺はロシアへ行ったことがあるがあの国は嫌いだ。ただ、あの国には健康に良い水がある。」と、話したりとか。旅行者がする様な他愛もない話。通訳など必要ないレベルにジャビットは英語が喋れた。そして、笑いながらジャビットが言った。

ジャビット「最初から気になっていたんだが、なんでエチオピアやジンバブエに行ったんだ?環境は悪いし、食べ物は良くないし、何も面白い物はないだろう?」

僕「確かに。でも、エチオピアにもジンバブエにも絶景がある。絶景を見たくて僕は旅行をしているんです。」

 と、自慢気に言って、携帯に保存してあったダナキル砂漠やヴィクトリア・フォールズの写真を見せた。そのタイミングでジャビットの携帯が鳴った。また10秒足らずで話を終えると、事務机に座ったままだった警察署長と思われる恰幅の良い男と二言三言交わしてから、通訳の女性に僕のパスポートのコピーを取る様に指示を出した。また全ページのコピーが取られる僕のパスポート。その間、しばらく世間話の続きを楽しむ。

ジャビット「私にはヤマモトという日本人の友達がいるんだ。彼の話が面白くてね。私は日本の文化に興味を持っている。私と同様に日本の文化に興味のあるアゼルバイジャン人も多いよ。バクー(アゼルバイジャンの首都)も東京に似ていると思わないかい?あと、君のパスポートの写真を撮ってもいいかい?こんなに沢山スタンプを持った日本人に出会ったという話をヤマモトにしたいんだ。」

 僕のパスポートのほぼ全てのページを写真に収めるとジャビットは席を立った。そして、通訳の女性に何か指示を出してから、僕にこう言った。

ジャビット「よし行こう。私の車でホテルの近くまで君を送って行くよ。」

 一瞬、耳を疑った。まさか、こんなに早く警察署から出られると思っていなかった僕はジャビットに聞き返した。

僕「釈放されるんですか?」

 ジャビットは「そうだが?」と、軽く答えた。まるで、僕の反応の方が意外であるかの様に。

 ジャビットの車は高級な匂いのする黒のベンツだった。乗車してすぐにシートベルトをした僕を笑うジャビット。

ジャビット「私は事故を起こさないよ。」

 僕も笑いながら答える。

僕「いえいえ、そうではく、日本ではシートベルトをしないと警察に捕まりますよ。アゼルバイジャンでは問題ないんですか?」

ジャビット「ハハハ、私は大丈夫だ。」

 「私は」大丈夫か。ジャビット、あなたは何者か。そして、どれだけの権限を持っているのか。ベンツの助手席で窓の外を流れる景色を眺める。目に留まったものを指差しながら説明してくれるジャビット。「バクーはまだまだこれから発展する。」と力強く言ったジャビットの言葉と真っ直ぐな目が印象的だった。

 ホステルの最寄り駅に到着するとジャビットと握手をして車を降り、車が見えなくなるまで手を振った。相変わらず空には重い雲が連なり、カスピ海からは強い風が吹き付けている。何度も通ったこの道も、車の流れも、道を行く人達の様子も数時間前と何も変わっていないのであろう。しかし何もかもが少しずつ変わった様な、そんな気がしてならなかった。

 - 終わり -